生きていることを実感できる身体性について
先日、会社から長期休みをもらったので、タイに行ってきた。
2週間の休暇で僕はタイ式マッサージの修行を行ってきたのだ。
勿論、マッサージのテクニックを上げたいというのが一番の目標だったが、
修行を通じて、意外なことを感じた。
それは
「あ〜なんか自分って今すげえ生きている」ことを実感したのだ。
マッサージの授業は、祈りから始まる。
そのあと、受講者同士でマッサージの練習を部位ごとに行う。
自分が相手の身体を揉んで、相手が気持ちいいか、強すぎたか、痛いかなどを
リアルタイムでフィードバックしてもらえる。
自分の手は相手の体温の温もりを感じるし、相手の表情や雰囲気から自分の押し方を変化させる。
先生には手取り足取り指導してもらい、最適な押し方を実践してもらえる。
今、この瞬間に集中して、自分の手のひらに全神経を集中させて、呼吸を整えて、
マッサージを行っていく。
昼休みはみんなで近くの屋台で食材を買って、風に当たりながら昼飯を食べる。
そしてまた授業を行う。
の繰り返しだ。
一見単調なことかもしれないが、普段の僕の仕事からしたら全くもって
単調ではなく、実に人間らしいことをしていると感じた。
というのも、僕が普段の仕事で上記のような手触り感・身体性を感じる瞬間は非常に少ない。
一日中パソコンを通じたコミュニケーションに終始し、
会議中も相手の表情を伺い話す言葉を選ぶ。
議論しているのは未来のことばかり。
リアルなことはたまにはある。
展示会出展やお客様への営業、実証実験なんかはそうだが、
それらの体験も全くもって、タイのマッサージに比べたら身体性という観点からは
薄い事例だ。なぜか?
それは、やはり、「今・ここ」という実感が薄いからだと思う。
「今、この瞬間目の前の人に集中して、相手がどう感じるか、相手の表情が何を示唆しているか、それに合わせて自分の一挙手一投足をどのように変化させるか」
これが身体性を感じられる体験なのだと思う。
この身体性を通じて、人は深い体験や感情を湧き上がらせることができる。
これが生きる、そのものだと思う。
谷川俊太郎の生きる、という詩にはこんなフレーズが出てくる
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
今この瞬間の意識を大切にすることは、何気無い自分の感情さえも生きている実感にさせてくれる。
これからそういう生きている感覚を感じられる場所が求められていくんだろうな〜と思った。話。