鬼滅の刃を読んで、倉本聡と真田幸村を思い出した。
鬼滅の刃。
読みました。
毎週金曜日の夜に、漫喫に行って、3巻づつ読むと言う、
最高の出汁を少しづつ搾り取るように、
この漫画を堪能させていただいた。
そして、最終巻では思わず涙をしてしまった。
漫画を読んで泣くなんて、初めてだよ。
そして今改めて思う、なぜ鬼滅の刃が多くの人の胸を刺すのか。
①色々と捨てすぎな潔さ
この作者、現代人のスマホなれした特性を分かりきっているかのように、
本当に飽きさせない漫画の作り方をしている。
例えば、主人公が初めて鬼殺隊となるべく、
天狗のお面の師匠に修行を遣わすシーンだが、
初っ端の修行シーンが一切描かれず、修行後のめちゃめちゃ疲れた主人公1コマのみが描かれて終わっている。
ここで衝撃を受けた。
従来の漫画家なら、わからんが例えばNarutoで言うと、自来也の修行シーンばりに、
描きそうな気もするが、
それを一切省いている。
なんと良い潔さ。
だからこそ、重要なシーンのみを描き、読者は飽きない。
おそらく、まだ序盤シーンで作者も若いということはあるが。
通常の漫画家はスキルが上がるに連れ、どんどん描きたい要素が増えてしまい、
助長になってしまう。
ワンピースがいい例である。
そしてこれはあらゆるモノづくりでも同じである。
技術力が高まるとユーザーが求めていない要素をどんどん増やして行ってしまい、結果的に幕の内弁当になってしまう。
ある意味、ストーリーに骨子のみに絞り、徹底的に描きたい気持ちを無視する、
非常に作者目線ができる体制で進めていたんだろうと感心した。
②正義と悪、両方の解釈がある
鬼滅の特徴とも言える、
それぞれのキャラクターごとに描かれる固有の昔ばなし。
これは仲間だけでなく、敵キャラでも同じ。
特に上弦の参の鬼の話は秀逸であった。
この悪キャラも他のキャラと同じく、
どうしようもない不幸により、鬼にされてしまう。
しかし、このどうしようもない不幸を描く裏の設計の深さに驚いた。
この鬼は人間時代、
己の愛する人を、隣人に毒殺されてしまう。
すごいのは、
漫画の中では直接描かれない、その毒殺を行った人間たちの
背景や心理、人間関係をかなり緻密に考えて漫画を書いているのだ。
これは話の間の「大正裏話」という漫画の裏設定でわかるのだが、
この緻密さは、
彼も、ドラマのキャラクターたちの生まれてから、
ドラマの時代に至るまでの年表を事細かに作り、
それで初めてドラマを描く作業を行っている。
漫画家でそこまで設定を行っているのは、非常に稀なのではないだろうか。
マーケティングをする上での、
ユーザーはそのサービスを使う導線
例えば、どんな状態でどんな方法でそのサービスに出会い、
その時はどんな心理状態なのか、そう行った細かい描写を考えながら、
サービス設計を行うのだが、まさにそれを全てにキャラクターで描く、
ポスト聡の仕事ぶり。
これによって、悪側の論理を読者は知ることになり、
意味の解釈が生まれる。
ここの解釈の多様性があるからこそ、
この漫画に対してあらゆる感想を抱く。
つまり人によって解釈できる幅が広いため、あらゆる世代から愛される漫画となった。
③主要キャラが平気で死んでいく無情さ
最後に、物語の核をなす「柱」たちが普通に死んでいく。
ワンピースでいうと、エースが3巻おきくらいに死ぬ勢いである。
しかし、常に柱たちは死と正面から向き合っている。
どう生きるか、よりもどう死んでいくべきか。
それぞれが覚悟を持ち、
鬼を倒すという目的のもと、
一致団結している。
永遠の命を持つ鬼、切っても切っても蘇る鬼、
そんな強靭な鬼たちに、
骨が折れ、血を吐き、腕を削られようとも、
儚い命を全力で生き切る、そんな精神性が
真田幸村を彷彿とさせるのだ。
そして、古来より日本人はこの
負けると分かっていながらも、全力で挑み、死んでいく「精神性」に美意識を持っている。
それは戦艦大和が沖縄で負けるとわかりながらも沈んで行ったことを美しく描く特性である。
ここの精神性を最大限美しく、強く描き切ったからこそ、
あらゆる人たちの心を打ったのである。
振り返ると、
この物語の設定である
「強靭な鬼」VS「強く儚い人間」
この設定を作り、
さらに足元を支える、
「無駄を省くシンプリシティ」「意味の解釈せい」「主要キャラが死に向きあう精神性」
が深く強く絡み合いこの傑作が生まれたのだ。