なんとなく嫌な予感がしていた。
祖父の様態の連絡が、暫くなかったからだ。
多分仕事がある自分に遠慮しているのだろう、
ぼくは母親に電話をして、状況を知った後、
すぐに新幹線に飛び乗った。
今回が本当に最後だろう、
でもそのときに僕は何を伝えたらいいのだろう。
そんなことを考えながら、岡山についた。
コロナの影響で、横浜からの面会はだめです。
これが病院のスタンス。
でも、何とかお願いして、
全力でお願いして、
15分だけ面会できることになった。
おじいちゃんに会ったとき、
手を握ったとき、
涙が止まらなかった。
かろうじて聞こえる右耳に向かって呼びかける。
おじいちゃんはうなずき、
必死に何かを伝えようとしている、でも声を出す力がない。
ホワイトボードに書きたい、と手でジェスチャーを伝える。
細い手で、必死にペンを握りしめて、僕に何かを伝えようと、
必死に書いている。
文字は全く読めない、ふにゃふにゃだからだ。
でも、それでもよかった。
何かを伝えようとしてくれてるおじいちゃんが嬉しかった。
ほとんどご飯も食べられない、体中癌に冒されて、最後の病床にあって、
必死に何かを伝えようと書き続ける祖父。
ぼくはその姿を見ながら、これがおじいちゃんなんだと思った。
最後まで、最後まで、伝えようとしてくれてる。
僕はおじいちゃんありがとう、しか言えなかった。
15分くらいだろうか、疲れ果てた祖父は目を閉じた。
まだ体温がわずかにある。
暫くすると、
少し目を開けた祖父は、もう一度書きたい、と手でジェスチャーを伝える。
すぐにホワイトボードを差し出して、また、何度も、何度も、
読めない文字を書き続けてくれた。
涙が止まらなかった。
子供のころ、おじいちゃんは、絶対ぼくがどんなに頑張って、レゴを作っても
100点はくれなかった。
いっつも笑いながら、80点、85点、90点。
そんなおじいちゃんが好きだった。
今回のおじいちゃんの文字は10点くらいだ。全然読めないよ。
今まで散々話してきたけど、肝心の最期の時は、何を伝えたらいいかわからなかった。
でも、今まで沢山喋ってきたからこそ、
生きているうちにたくさん伝えてもらったからこそ、
祖父が最後に伝えたかったことが、僕には理解できた。
祖父と最後の別れをした後、
母親に祖父が書いたホワイドボードの写真を見せた。
かなりの時間を過ごしてきた母親は、
一つづつおじいちゃんが書いた文字を解読していく。
會社
及び
日本
難しい
全体の10%程度しかわからなかったが、
多分
これからの日本は難しい時代になる、
會社も難しい時代になる、
祖父がずっと言ってきた言葉だった。
そんな時代だからこそ、頑張れ
と祖父は伝えたかったのだと、
そう僕は理解した。
生きているうちに、伝えなければならない。
伝えられるのは、生きている特権だ。
日々、自分はどれだけの想いを伝えているだろうか。
おじいちゃんから受け継いだすべてを、僕は伝えていくよ。
ありがとう、おじいちゃん。