日々の思考の積み重ね

家電メーカー企画マンの独り言ブログ

現代において死の恐怖を抑圧する方法はあるのか

よく死ぬ気でやれ、という言葉を聞くが、

死ぬ気でやれというのは、

死ぬほど頑張るのか、やれなかったら死んで償うのかよくわからないが、

死ぬ気でやると通常時よりもパフォーマンスが上がるということである。

 

でも難しいのは、死ぬ気=投げやり、になってしまったらダメと言うことだ。

「どうせ死ぬなら最後は華々しく死のう」

といってただ敵陣に突っ込むだけでは、犬死であり、

最高のパフォーマンスを発揮したとは言えない。

 

死ぬ覚悟でその都度考えられる最善の努力を行うことが正しい姿だが、

そんな境地に達することができるのは、現代社会では無理だろう。

TIKTOKで変顔体操してる現代じゃあ無理だろう。

 

でもかつての日本では、そんな境地に達した人間が何千人もいた時代があった。

江戸時代である。

 

江戸時代の武士には切腹という方法があった。

方法という言葉を使ったのは、その先に目的があるからだ。

切腹の目的は何か?

それは「命を絶つこと」ではなく、その手段を保有することにある。

切腹の手段を保有することは、人生を強くしなやかに、大胆に生きることができる。

 

それは司馬遼太郎の竜馬が行くの一文からも感じ取れる。

 

以下は武市半平太山内容堂の命により、切腹を行う場面に記載されている。 

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武士の虚栄はその最期にある。

切腹は自分を語る最も雄弁な表現方法である。

武士の家では男の子が元服する前に入念に切腹の作法を教える。

日本人に死を軽んずる伝統があったというのではなく、

人間の最も克服困難とされる死への恐怖を、

それを押さえつけて自在にすることによって精神の緊張と美と真の自由を生み出そうとした。

その意味では切腹は単にその表れにすぎないが、その背後には世界の文化史の中で屹立しているこの国の得意な精神文化がある。

 

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司馬遼太郎の文才はやはり抜きん出ており、これほど端的にその意味を

表現できる言葉はないかと思う。

 

精神の緊張と美と真の自由

 

死と隣り合わせではなく、死を抑圧することで実現できる境地である。

 

時代は変わった現代でも、この3要素は誰もが欲することだろう。

 

死の抑圧することはできないもしれないが、この境地に近づくためには、

どうしたら良いのかと考えていたのだが、それを思いついた。

 

それは、意思決定をシンプルにするのである。

 

 

例えば先ほどの美と真の自由を得たいなら、

美→自分の信念に忠実か

真の自由→自分の感性に従う

 

に伴い、日々の意思決定を続けるだけである。

 

最近自分はオープンカーを買った。うちの家庭の状況を考えたら、

常識的には軽自動車を買うべきであっただろう。(若干今でも少しそう思っている笑)

オープンカーの方が燃費は悪いし、運転しにくいし、車内は狭い。

しかもうちは小さい子供が2人いる。オープンする日なんて1年の中で数日かもしれない。

 

しかし、軽自動車とオープンカー、どっちが楽しい?

と思ったら余裕でオープンカーの勝ちであった。

自分の人生のテーマは癒しとエンターテイメントを日常に作ることである。

単純に自分の美意識に従っただけである。

 

たかが車だが、日々の些細な意思決定の積み重ねがその人の人生を形作る。

そう思った時、

意思決定基準をできる限りシンプルに、可能な限り「生き方に忠実に」し続けることで、

もしかしたら、

真の自由を得られるのではないかと思う。

その果てには、自分の美意識を貫いた先には

何が待っているのだろうか。