イチローとの思い出
イチローが引退してしまった。
引退直後はショックであまりイチローのことは考えたくなかった。
それくらいイチローは僕の精神的支柱であった。
ちなみに僕は生のイチローを一度も見たことがない。
全てテレビ画面越しのイチローである。
でもなぜか、
僕の古い記憶の一ページにイチローはしっかり刻みついている。
それは、1990年台半ばの、イチローがオリックスにいる頃、確か優勝したシーズンだと思うのだが、
彼がホームランを打って、チームメートに祝福されているシーンだ。
ベースをゆっくりと回るイチローの映像と、
そのとき親が「イチローはすごい」と言っている記憶だ。
当時幼稚園の自分がイチローという存在を認識した瞬間だった。
そのあと、確かガソリンスタンドでイチローの写真が入ったペンケースをもらった。
それがすごい嬉しかったのを覚えている。
それから学校の図書館でイチローの本を読み、彼のストイックな人間性を知った。
特に子供の頃毎日バッティングセンターに通っていたスパルタ教育を知ると、
彼への興味が強くなっていった。
次男なのに、「一郎」と名付けられ親からの期待を一身に背負う。
小学校の卒業文章でのプロになる宣言。
全てが輝いて見えた。
パワプロでも、イチローは圧倒的なパラメータで、特に肩は素晴らしく、
他の選手はノーバウンドで届かないような距離でも、
イチローならノーバウンドでホームまで届いてしまう。
イチローが打率4割に最も近づいた1999年ごろは、毎日スポーツ新聞をおじいちゃんの家で読むのが楽しみだった。
当時イチローがシーズン中に打率398まで到達したことがあり、
イチローの成績に僕は毎日一喜一憂していた。
結局4割にはいかなかったが、本当に夢の4割に届いてしまうのではないか、毎日ハラハラしていたし、そんなイチローの存在が誇らしかった。
小学校高学年になり、草野球にハマると、僕はオリックスの青色の帽子を被り、左打席に立ち、振り子打法でイチローの真似をしていた。
全然打てなかったが、それでも彼に近づいている自分の高揚感はあった。
そんな僕に、初めてイチローに会える時が来た。
それは、オープン戦だったと思う。親が野球のチケットを取ってくれたのだ。
僕は胸が高鳴った。
あのイチローに生で会える。
しかし、イチローはその試合には出てこなかった。
ちょうどメジャーに一週間の練習に行っていたのだ。
僕はショックだった。
そして一年後、イチローはメジャーに行き、僕がイチローに会えることはなくなってしまった。
彼がメジャーに行った後も、ずっとファンだった。
彼がメジャーで初めてレフト前に打ったポテンヒット。
僕はバスケ部であったが、海をこえたアメリカで結果を出し続ける
侍バッターとして誇らしかった。
2004年の年間最多安打記録を達成したとき、僕は高校生になっていた。
夏頃に一時調子を落としたイチローの様子を見て、
僕はもう年間最多安打は無理かもな、と思った。
しかし、その直後に起死回生の5打数5安打をぶち込んだイチローは、そこから息を吹き返し、伝説の記録を達成してしまう。
記録達成時の安打もイチローらしく内野安打で、その姿に感嘆した。
それから僕は大学生になり、野球とは全く違うスポーツにハマるわけだが、
それでもイチローのことは追いかけていた。
彼がWBCで打った決勝点には家族みんなで大絶叫した。
椎名林檎がイチローのために作ったスーパースターは僕の通学時のお気に入りソングだった。
Youtubeでイチローのスーパープレー集を見るのが好きだった。
イチローの格言は就活で悩む僕を励ましてくれた。
僕が年齢を重ねるに連れ、イチローの成績にも少しづつ陰りが見え始めた。
僕はなぜもっと早く移らなかったのか、不思議に感じたが、そこは彼の中のポリシーがあったのだと思う。
少しずつ出場機会が減っていた。
僕は悔しかった。なぜイチローをもっと起用してくれないのか。
彼をフル出場させたらもっと結果を出すはずだと。
でも彼はそんな中でも代打起用を続けられ、それでも数少ないチャンスを生かして頑張っていた。
代打記録の2位までなったときも、僕は本当に嬉しかった。
1位じゃなきゃ意味がない、とイチローはいうが、僕はそんなことはないと思った。
その後、イチローはマリナーズに帰って来た。しかし、2001年のようなプレーヤーとしてではなく、監督のような立場でほとんど出場する機会がないようだった。
辛かった。
でもどこか期待していた。またイチローだったら結果を出してくれる。
イチローだったら、イチローだったら、まだまだやれる。誰よりもコンディションに気を使って来た、誰よりも努力を続けて来た、誰よりも野球が好きじゃないか。
僕はイチローが本当に50歳まで野球を続けると思っていた。
多分日本に帰って来たら、もしかしたら野球を続けることができたかもしれない。
しかし、彼はこの春のキャンプの時に感じてしまったらしい。
自分のバッティングがもうできない、と。
彼が50歳まで野球を続けることは、
自分のバッティングを続けられることが必要条件であったのだと思う。
しばしば日本人はイチローをメタファーに使う。
プレフェッショナルとしてのイチロー、
一つのことを積み重ねる努力家としてのイチロー
侍としてのイチロー
僕の中のイチローは孤独なスーパースターである。
そして、かっこいい。
だから、イチローが現役でいるこの時代に生まれて本当に良かったと思うし、
彼の素晴らしいプレーで一喜一憂させてくれたことに本当に感謝している。
そして、日本中に多分僕みたいなイチローファンはたくさんいるのだと思うし、
イチローが野球を辞めることを知って本当に辛かった。
もしイチローに会える機会があるなら伝えたい、
もっと野球を続けて欲しかった
と。
そして、夢を見させてくれてありがとう。と