言語化できないことに価値がある
新しい企画を行っていたり、最新のサービスを調べていると、
言語にできないモノに振れる機会が多くなる。
言語にできないというのは、その商品やサービスが持つ本質的な価値もそうだし、
コンセプトや狙っているターゲット、サービスの業界定義など、
明確に言えない領域が存在する。
そしてそれは自分の進める新事業についても同じことが言える。
自分の描きたい世界や実現したい社会は言語化できるのだが、
それを実現するための手段系、つまり自分の企画する商品の価値が明確に
定義できないのだ。
自分の企画してる商品くらい正しく価値を認識できなのか?
と言われそうだが、
いかんせん、できないものはできないのだ。
最後にはだいたい変な横文字を使って説明してしまう
勿論その商品の魅力を誰よりも信じているし、
誰よりも世の中に広げたいと思っているのだが、
クリティカルにその商品の価値を明確化することはできないし、
もはやする必要もないとさえ思ってしまう。
そしてなぜこんなことが起こってしまうのかというと、
おそらく、「その体験自体がこれまで存在していなかったため、その意味を説明する言語が存在していない」という結論付けになった。
そもそも言語とは意味であり、人に伝えるために言語は存在する。
しかし、人に伝えるためには、
その人達に体験が共有できる状態になる必要がある。
しかし、その体験が共有できる状態になるには、多少は世にそれが浸透する必要があるわけだが、世に存在しないものは体験が共有できない。
つまり、伝えられないもののため、言語化できないのだ。
以前、以下のような記事を書いたが、これは自分がその体験を言語として把握しておかないと、それ自体を体験できないという記事だが、同様のことである。
例えば、最近若者の間で流行しているTiktok
これはどんなものかというと、
短い動画共有サービス
であるが、では一体どんな価値を提供しているのか?という問いに対して、
一言で表すのは非常に難しい。
抽象度をあげると
承認欲求を刺激するサービス
であるし、
具体的に言うと、
決められた既定のダンスに合わせてかわいく自分の動画を共有できるのでインスタよりも気軽にそこまで恥ずかしくなくみんなにかわいさをアピールできて幸せ
なサービスである。
大体この具体と抽象の中間地点が最も筋の良い言葉となるのだが、
「歌や踊りなどの面白さに振ったコンテンツパッケージ」
「驚きや面白さを気軽に作れて共有できる動画イノベーション」
「誰もがクリエイターになりたい深層的な欲求を満たすサービス」
まあなんとでも言えるわけである。
だからTiktokの価値をシンプルに言語化するのは難しいし、しなくてもよいと思う。
だからTikitokも思い出を作ろう、みたいな振り方をしているのだろう。
きゃりーぱみゅぱみゅの価値は?と問われたら、
人によって異なるし、PPAPもしかり。
キャッシュみたいなフィンテック×フリマみたいなサービスも説明が難しい。
AirbndBの価値も一つではない。
人の欲求が複雑化している社会では、
言語化できないものから新たなサービスが走り出し、それが次第に認知され、
言語化されていくわけである。
だから、新しいサービスを考えている人は、
例えその価値を自分でうまく表現できなくても
落ち込む必要はない。
逆に、
・人によって感じる価値が変わってしまう
・提供者側が明確な説明ができず、言葉を探してしまう
くらいなサービスの方が新しいイノベーションが生まれやすい社会なのだ。
むしろ大切になっていくことは
そのサービスが受け入れられているユーザー達がいる、
という事実である。
特に最初のイノベーターやアーリーアダプターが
なぜそのサービスを使ってしまうのか、今までどんな課題があったのか。
そのサービスは一言では言語化できないものであるが、
そのユーザー達が使っている理由はわかるはずだ。
その理由が
・今まで気づかなかった課題であるのか
・その課題は大きかったのか
・それはマズロー欲求の高次な欲求であるか
この三つがそろっていることの方が、大切であり、
強いインパクトを生むサービスになり得る。
ということを一週間の展示会を通じて、
100人以上の人としゃべり続けて、
最後に感じたことでした。
今、新幹線で帰っているが、頭があったかいうちにとりあえず書いておきましょう。
そして、今週は一回も週刊誌が立ち読みできてないので、帰りのコンビニが楽しみでもあるね。